新型ウイルスの感染拡大が懸念される中、政府や警察関係者、地方自治体などは各種対応に追われていた。それはここ公安部も例外ではなく、この危機的状況に紛れて不審な行動を取る者はいないか監視をしたり、それ以外にも人手が足りない部署の手伝いをしたり等、この異常ともいえる事態を一刻も早く収束させるべく日夜業務に励んでいた。
「おい、風見。いい加減、君は休憩を取れ」
「いえ、自分はまだ大丈夫です。それよりも、降谷さんこそ少し仮眠を取られては如何ですか?」
栄養ドリンクの空瓶が立ち並ぶデスクの中央で、カタカタとキーボードを叩きながら風見がそう告げる。眼鏡をずらし、眉間を押さえてバキバキと肩を鳴らす姿を見る限り、とても大丈夫そうには見えないなと降谷は思った。
「君なあ……そんな状態じゃ、作業効率も下がるだろう。大体、いつも言っていると思うが、チョコレートは食事の内に入らない」
身体が資本だろと言う降谷の声に、ギクリと風見が顔を痙攣らせた。
「もうすぐキリがつきそうなので、これが終わればコンビニにでも食料を調達しに行きますから……」
どうにも尻窄みな風見の言葉に、「本当だろうな」と降谷の呆れた視線が飛ぶ。自分だって、さっきゼリー飲料で食事を済ませていたじゃないかとは言えないのが悲しいかな年上部下の宿命だ。それでも、降谷の下について数年。配属されたばかりの頃を思えば、風見も随分と打ち解けて、多少は言い返せるようになったのだ。
「自分も食事休憩取りますから、降谷さんもいい加減寝てください。身体が資本、でしたよね?その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
カカオポリフェノールとカフェインの過剰摂取で思考回路が麻痺した風見がドヤ顔でそう言い返す姿に、同じ様に睡眠不足で頭の回らなくなった降谷は「君も言う様になったな」と目尻に涙まで浮かべて笑い声を上げたのだった。
◇◇◇
「…………頭が冴えて、一向に眠れやしない」
仮眠室のベッドはどうも硬くて寝心地が悪い。今頃ハロはどうしているのだろうか?彼女に預けたきり、一週間以上会えていない愛犬を想うと急に恋しくなった。あのふわふわな白い毛に埋もれて瞳を閉じたい。ハッハッと嬉しそうに息を上げる姿が目蓋の裏に浮かぶ。
「ハロちゃん、良かったね。大好きな安室さんが帰ってきて」
まるで自分のことの様に、にこにこと嬉しそうな表情を浮かべる彼女の姿までもがハロと一緒に僕の脳裏に浮かんだ。──駄目だ、逢いたくて堪らない。ひと目でいいから、逢ってこの腕の中に抱きしめて、それで……。
わかってるさ、そんなこと今は到底無理なことぐらい。それでも逢いたいと思ってしまうんだから、仕方がないだろう?……せめて声だけでも。聞き分けのない僕の頭が、脳が右手に信号を送り、慣れた手つきでいつもの番号にダイヤルをかける。その間、二秒。腕時計の短針はとっくに頂点を通過していた。……流石に、寝ているだろうな。ワンコール、ツーコールと無機質な音が続く。
「…………もしもし」
「っ、僕です……もしかして、寝てました?」
「んぅ、…………っ、寝てた、かな」
まだ少し眠た気な声を上げる彼女の様子に、僕の頬は緩まるばかりだ。いつもよりもスローテンポな喋り口調が無性に可愛い。鼻にかかる吐息なんて、夜のそれを彷彿とさせるようで少しばかり不埒な妄想が僕の頭を過った。コホンッ、いくらなんでもそれは駄目だろう。収拾がつかなくなる。
「起こしちゃったみたいですね、すみません」
「…………ううん、大丈夫。それよりも何かあった?こんな時間に安室さんが電話してくるの、めずらしいよね」
「…………君の声が聴きたくなっただけって言ったら怒ります?」
「ふふっ、怒らないよ。私も安室さんの声、聴きたいなあって思ってたとこ」
「……でもさっき、寝てたって言ってませんでした?」
「んー?安室さんに逢いたすぎて、夢の中でも安室さんのこと考えちゃうくらい。だから、びっくりしちゃった!」
これもまだ夢かな?そう笑う彼女の声に、僕もつられて小さく笑い声を上げた。「夢じゃないですよ」そう告げる僕の声は、公安の連中が聴いたら驚いて椅子から転げ落ちるくらいには甘く蕩けていることだろう。まあ、この仮眠室には僕しか居ないのだからそんな心配は無用なのだが。きっと頬だって緩々に締まりなく緩みきっているに違いない。
「ねえ、もう少し何か話してください。……今日あったこととか……夕飯何食べたとかでもいいですから」
「えー?……そうだなあ、今日は仕事帰りにスーパーに寄って、念の為に非常食を買ったり、お水とかお米とか。ほら、百貨店とか……来月から営業時間縮小するとこ多いし。あとは、ハロちゃんの餌とー、あ!ポアロでね、ケーキも買ったよ」
「ポアロ?」
「うん。前通ったらね、梓さんと目が合って。お客さん、今日全然居なくてケーキ売れ残ってるんです~って困ってたから、買ったの」
「ふふっ、君のことだからまた断りきれなくて買っちゃったんでしょう?」
「まあ、そうなんだけど。でも、久々に甘いもの食べたいなあって思ってたから、丁度いいの」
それでねー、ハロちゃんとお散歩行って。夕飯は……眠いのかいつもよりもゆったりと優しく話す彼女の口調に、次第に僕の目蓋も下がり始めてくる。夕飯の話題が出てきたところで、ぷつりと僕の記憶は途絶えた。意識が薄れていく中、「安室さん、寝ちゃった?ふふ、おやすみなさい」と彼女が微笑む声が聴こえた気がした。
「降谷さん、そろそろ起きてください」
「…………んー、なんだ風見か。おはよう」
欠伸を噛み殺すことなく大きく口を開ける僕に、風見が何やらガサゴソとビニール袋を漁りながら話しかけてくる。
「先程コンビニに寄ったんですけど、降谷さんも食べられますか?おにぎりに、ヨーグルト、サラダなんかもあります。それと……」
「おいおい、どれだけ買ったんだ。流石の僕でも朝からこんなには食べれないぞ。おにぎりだけでも紅鮭に梅におかかにツナマヨに、まだあるのか?いや、もういいよ。それは君が食べろ」
「やはり降谷さんの言った通りでした。チョコレートよりも日本人はお米ですよね!頭がスッキリして作業も捗りそうです」
降谷さんはどうです?心なしか昨日よりも顔色が良い様に見えますが。やけにいつもよりも口数の多い風見に苦笑しつつ「まあ、僕も君の言う通り、少し寝たら頭もスッキリしたよ」と返せば「ですよね!」と何故か風見が得意気な表情を浮かべた。
それから数日おきに僕を仮眠室に追いやる風見と、毎度の様に寝落ち通話を繰り返す僕に、一番被害を被っているのは他でもない彼女かもしれない。そろそろ苦情が届きそうなので、早いところこの異常な事態の収束を願うばかりだ。それに、電波よりも早く僕の腕の中であの可愛い寝惚けた声を聴きたいっていうのが本音でもあるけどな。