「どうせなら、僕も新しく浴衣を用意した方がいいよな……」
「え、安室さん何か言いました?」
「……いえ、何でもないです」
どうやら声に出ていたようだ。僕の言葉に不思議そうな顔を浮かべる梓さんに苦笑を返して誤魔化す。僕としたことが、いくら何でも気が緩み過ぎている。風見のことを言えた立場か?そんな風に心の中で自分を叱咤する僕の前に、幸運にも彼女の例の友人が現れた。カランとベルが音を立てるドアを潜り抜け、「あー、暑い……安室さん、アイスコーヒーひとつ」と僕の目の前のカウンター席へと腰掛ける。どうやら、今日はその隣に彼女は居ないようだ。
「いらっしゃい。アイスコーヒーですね……それにしても凄い汗ですね」
「もう、今日めちゃくちゃ暑いんだけど!」
「はは、猛暑日になるって予報でしたからね……はい、どうぞ」
「あー、生き返る……」
アイスコーヒーを一気にグラスの半分程まで飲んでそう呟く彼女の友人に僕は「大袈裟だな……」と苦笑を零す。
「そういえば、今年の花火大会はいつものお友達と行ってあげなかったんだって?」
「あー、あの子ひょっとしてここで愚痴ってた?」
「折角、新しく浴衣買ったのにって少ししょんぼりしていたよ。彼氏も大事だけど、お友達も大切にね」
「……なんか今日の安室さんお母さんみたい」
くるくると半分以下になったアイスコーヒーをストローで掻き混ぜながら溢れた台詞に僕はまた苦笑を浮かべた。お母さん、か。あの子のことになるとどうしても口を出してしまいたくなる僕は確かに口煩い母親のようかもしれない。僕がいないところでも、あの子には幸せであってほしいと願うのは何も可笑しなことではない筈だ。
「そういえば、浴衣も二人で買いに行ったんだってね?どんなの買ったんだい?」
さり気なくあの子の浴衣を聞き出そうという僕の魂胆など知りもしない目の前のカウンター席に座る彼女の友人は、僕の思惑通り彼女の浴衣の詳細まで話してくれた。なるほど、白地に向日葵の浴衣……それに淡い緑の帯か。確かにあの子に似合いそうだ。
「って、安室さん聞いてる?」
「あ、すみません……少し考え事をしていて……」
あの子の浴衣姿を想像していて、彼氏との惚気話なんてちっとも聞いていなかった僕のことを責めるような視線を送るあの子の友人に「すみません……」と頭を掻いて誤魔化していると、ピロンと軽快なメロディーが鳴った。どうやら彼氏からの連絡のようだ。
それまでのジト目はどこにいったのか、急に笑顔を浮かべ始める目の前の彼女に僕はまた苦笑を浮かべる。今日は何だか苦笑してばかりの一日だな。何はともあれ、あの子の浴衣の色が分かったんだ。どうせなら、彼女の浴衣と合うような色にしようと顎に手を添えて悩み始める僕に「何だか今日の安室さんは少し上の空ですね……」と梓さんの鋭い言葉が飛んだのだった。
◇◇◇
「もう少しで着くみたいですね」
カーナビをちらりと見て、安室さんがそう呟いた。小麦色の肌に淡いグリーンの浴衣、黒い菱形模様の帯を締めた安室さんはどこかいつもより色っぽくて中々その眼を真っ直ぐ見つめられないでいた。そんな私の様子に気付いているのか、気付いていないのか、狭いパーキングエリアにいとも簡単に車を収めた安室さんが後ろのシートへと腕を伸ばして何かを取ろうとするものだから、浴衣から覗く焼けた胸元がぐっと私の目の前へと迫ってくる。ち、近い。
「どうかしましたか?」
バックシートの足元から取った下駄を片手に、安室さんが首を傾げる。ツードアの狭い車内には何処にも逃げ場はなかった。どぎまぎとして、未だに安室さんの眼を見れないでいる。運転席の足元へと下駄を置く安室さんの手を目で追っていると、反対の手がゆっくりと私の方に伸びてきて思わずぴくりと身体を跳ねさせてしまった。顎を持ち上げられて、強制的に視線が混じり合う。一時間以上も同じ車内にいたのに、安室さんとまともに目が合うのは今日はこれが初めてだった。
「何だか今日は様子がおかしいですね……ひょっとして、照れてます?」
目の前の蒼い瞳にはやっぱり全て見透かされているようだ。恥ずかしくて眼を逸らそうとすると「こら、眼を逸らさない」と先手を打たれてしまった。
「だ、だって……安室さん、いつもよりその……色っぽくて直視出来ない……!」
「何ですかそれ……ほら、ちゃんとこっちを見て」
「ねえ、恥ずかしがる私を見て楽しんでるでしょ!?顔が笑ってるよ……!」
やだ、やだと身体を捩る私の頭の横に手をついて、顎を持ったままの安室さんに唇まで奪われてしまった。ぺしぺしとその胸板を叩いても、全然やめてくれる気配がないどころか、唇を割って深く舌まで絡めとられて、離してなんてもらえない。すっかりと私の身体から力が抜けて、抵抗も弱まったところで漸く安室さんの唇から解放されたのだった。
「……今の君の方が僕より余程“色っぽい”と思いますけどね」
そんな捨て台詞と共に車内に置いていかれる私の身にもなってほしい。私の頬を真っ赤に染めた張本人は「さ、行きますよ」と靴を履き替え、エンジンを切って車の外へと行ってしまった。放心状態のままシートに座り込んでいると、急にドアが開いてびっくりしてしまった。
「ふふ、そんなに驚かなくても。ほら、おいで。──焼きそばに、たこ焼き、かき氷の屋台も出ているよ。ラムネなんかもどうかな?」
「……飲む」
「じゃ、僕が買ってあげるから行こう」
伸びてくる大きな手に掴まり漸く車外へと出た私の腰を抱いて、安室さんが車にキーをかける。目の前には確かに安室さんが言った通り、沢山の夜店が並んでいた。
「あ、ねえ安室さん。金魚すくいあるよ」
「ふふ、やりたいですか?」
「うん、どっちが沢山掬えるか競争しよう!」
「はは、僕負けませんよ?」
「えー、またジュニアチャンピオンとかじゃないよね」
揶揄い気味にそんなジョークを飛ばすと「流石に金魚すくいは僕も素人ですよ」と安室さんは小さく笑い声を上げた。良かった、金魚すくいチャンピオンではなかったみたい。これなら勝てるかもしれない。
「じゃ、負けた方がラムネ奢るってのはどう?」
「……いいんですか、そんなこと言って。僕、強いですよ?」
「ジュニアチャンピオンじゃないのなら、まだ私にも勝ち目あるかもしれないし!さ、やろやろ。おじさん、二人分!」
「はいよ」
よーし、勝負だ!と張り切る私の隣に安室さんがしゃがみ込む。そっと水面にポイを差し込んで、すいすいと泳ぐ金魚の背後から狙いを定めてお椀を近くまで構えてスタンバイしたが、ポイの真ん中に大きな穴が開くだけで何も掬えやしなかった。次こそ……!と意気込んだが、二枚、三枚とポイを破っていくだけで結果はどれも同じだった。全日本ポイ早破り選手権でもあれば間違いなく私が優勝だ。少しガッカリとして隣を見ると、次から次へと容器の中に金魚を掬い上げているブロンドの頭が目に入った。……確かに自分で言うだけあって上手い。
「ポイを差し入れる角度は水面に対して35度から45度……これは君も出来ていましたけど、狙う時は尻尾からではなく頭からというのが重要なんです。金魚が驚いて向きを変えた瞬間にお腹の下から掬い上げる……まあ、そんなところですかね」
「……私のポイが全部破れる前に言ってくれないかな?そういうことは!」
「ふふ、勝負ですからね……どうやら、僕の勝ちみたいですね」
「あー、悔しい!」
兄ちゃん、凄い量だけど全部持って帰るか?と尋ねるおじさんに「いえ、手前のこの二匹だけで後は戻してあげてください」とキャッチアンドリリース宜しく金魚を厳選する安室さんの姿を膝に頬杖をついて眺めていたら、「はい」と金魚の入った袋を手渡された。
「え?」
「僕の家にはハロが居ますからね……君、ペット飼いたいって言っていたでしょう?」
「ペット……」
「金魚だって立派なペットじゃないか」
帰りに水槽でも買って帰りましょうか。それとエアーポンプと、フィルターに水草、と私よりも安室さんの方がなんだか楽しそうだ。
「そんな大きな水槽置けないよ」
「最近はポンプの付いた小型のものもありますからね。すぐに使える育成セットなんてものもありますよ」
「……安室さんもたまにお世話手伝いに来てくれる?」
「勿論」
「……じゃ、頑張ってみる」
宜しくね、トオルくんと袋の中の金魚に話しかけると安室さんが微妙な顔を浮かべた。因みにもう一匹の金魚は勿論私の名前をつけるつもりだ。
「……僕のことは“安室さん”って呼ぶくせに、その金魚は“トオルくん”なんですか?」
「そ、トオルくん」
「…………まさか金魚に先を越されるとはな」
顔に手を当て空を仰いでいる安室さんの空いている方の手を取って指を絡ませると、ぎゅっと手を握り返されてしまった。
「ほら、ラムネ買いに行くんでしょ?」
「ええ、そうでしたね」
金魚の入った袋を揺らし、仲良く手を繋いで人混みの中を歩いていく。普段なら考えられない、所謂普通の恋人同士のデートみたいで頬が緩んでしまう。
「……嬉しそうですね」
「うん、普通のデートみたいで嬉しい」
私のその言葉に、安室さんが立ち止まる。ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、真っ直ぐと真剣な表情で私を見つめる蒼い瞳から目を逸らさずに安室さんの言葉を待つ。
「……碌にデートもしてあげられないし、デートの途中で抜け出すことだってある。それに街中じゃこんな風に手だって繋げないけれど、それでも君のこの手を離したくないと思っている……こんな我儘で自分勝手な男だけれど、それでも君はまだ僕の側に居てくれるかい?」
「…………今更、何言ってんの。心配しないでもこの手を離してなんかあげないんだから、ちゃんとしっかり握っててよ」
強がってそう言ったくせに、頬を熱いものが伝っていく。折角、綺麗にメイクだってしたのに散々だ。力強い腕に抱きしめられて、手で拭う筈だった涙は安室さんの浴衣へと染み込んでいく。
「……泣かないでください」
「だ、れのせいで……!」
「…………ごめん」
頬を伝う涙を拭うように安室さんの親指が私の頬を撫でる。もう一度「ごめん」と謝る言葉と共に更に強くなる腕の力にぼろぼろと涙が止まりそうにない。
「……メイクだってぐちゃぐちゃになった!」
「ごめん」
「ん、たこ焼きだって、焼きそばだって、それにイカ焼きだって買ってもらうんだから!」
「…………何の話ですか」
「ラムネだって、やっぱり安室さんに買ってもらう……そしたら許してあげるから、そんな困った顔しないでよ……」
ぐずぐずと泣きながらそう零す私の姿に、一瞬面食らったように固まった安室さんは漸く私の言葉を飲み込んだようで、その顔にはいつの間にか笑顔が浮かんでいた。
「……本当、君には敵わないな。ほら、君の可愛い泣き顔を他の男に見られないようにお面も買ってあげますから、僕がいいって言うまでそれ外しちゃ駄目ですよ」
「ん、そしたら何も食べれないじゃん……」
「ったく、食い意地だけは張っているんだから……」
ハロも君も、どうしてこうも食い意地の張った子ばかり僕の周りには集まってくるんだ……と嘆く安室さんの声はその言葉に反してどこか嬉しそうだ。狐のお面を被せられ、片手に金魚の袋を持たされた私はまるでお祭りを満喫している子供のようだ。安室さんに手を引かれるがまま夜店の間を歩き、時々屋台に立ち止まる安室さんの横でそっとその横顔を盗み見る。
「どうかしましたか?」
「……流石にもう持てないでしょ。持つよ」
「ふふ、有難う。それじゃ、お願いしようかな……落とさないように、気をつけて」
「もう!子供じゃないんだから、大丈夫だよ」
そんな私の言葉に安室さんは頬を緩めてふふっと小さく笑った。
「ほら、あっちのベンチのあたりが空いているからあそこに座ろうか」
「……もう、お面取ってもいい?」
「あっちに着いたらね」
さっきまでの人混みが嘘のように、この辺りには誰も人が居ないみたいだった。ゆっくりとベンチに座り、手に持った金魚の袋をそっとベンチの上に置いた。最後に持たされたじゃがバターを膝の上に置いてお面を外すと、夜空一面に綺麗な花火がドンッ!と大きな音と共に咲き広がる。
「丁度いいタイミングでしたね」
「うん、やっぱり生で見ると綺麗だね……あ、ハート型の花火!」
「最近は色んな形があるみたいですね……」
夜空を照らす花火が、安室さんの横顔まで照らしている。急に静かになった私を不思議に思ったのか、それまで花火を眺めていた蒼い瞳が私の方へと視線を動かす。
「ん?どうかしたかい?」
「……安室さんって狡いって言われない?」
「え?」
安室さんの首へと腕を伸ばして、形の良い唇へと口付ける。ぽかんとしたままの安室さんに「……女の私よりも綺麗だなんて、狡い!」と拗ねる私にぱちぱちと瞬きを繰り返し、安室さんは頬を掻いた。
「……何だかよくわからないけれど、君からのキスは嬉しかったからまあいいか」
「全然っ、良くない!」
「ほら、たこ焼きあげるからそんなに拗ねないでくださいよ。はい、あーん」
「あーん……って、こんなので騙されないんだからね!」
「焼きそばも食べるかい?」
「ん、食べる……ってちょっと!」
「はは、ほらソースついているよ」
ぺろりと私の唇のすぐ真横を舌で舐める安室さんのせいでシューッと音が鳴りそうなほどにどんどんと顔が赤く染まっていく。ヤカンなら沸騰しているところだ。ちゅっと軽く私の唇に口付けて離れていく安室さんにまたしてもやられた。蒼い瞳はしてやったりといった表情で笑っている。そんな余裕たっぷりの安室さんの様子に「もう~~!!!」と更に怒り始める私の声と、それをクスクスと笑う安室さんの笑い声だけが花火が終わって静まり返った夜空に響いていたのだった──。