First love

 幼い頃の記憶をどれだけ覚えているだろうか。

 一般的に、人間が己に関してのエピソードを記憶し始めるのは四歳頃といわれている。確かに自分の記憶を辿ってみても、精々三歳ぐらいからしか覚えていなかった。それよりも前の記憶はどう頑張ってみても思い出すことが出来ない。これは何も私の記憶力が特別悪いというわけではなく、大体の人間は皆同じだとどこかのお偉い学者が言っていた。こういった現象を心理学的には「幼児期健忘」と呼ぶそうだ。

 大人になった今でも時々思い出す子どもの頃の記憶がある。あの日も、今日と同じような青空の澄み渡る暑い日だった──。

 ◇◇◇

 買ってもらってからまだ一年も経たない真新しい真っ赤なランドセルの中には、今日の授業で使った算数の教科書にひらがなノート、そしてお気に入りの筆箱などがぎゅうぎゅうと詰め込まれていた。筆箱の中には色とりどりのペンや鉛筆(──何故か低学年はシャーペンの使用を禁止されている。筆圧の加減がまだ上手じゃないからとかそんな理由だろう)、香りつきの消しゴムなどが入っていて、パンパンに膨れ上がっている。よく消しゴムを忘れる隣の席の零くんの為に、その筆箱の中にはいつも消しゴムを何個か余分に入れていた。

「……名前、消しゴム」
「名前の名前は消しゴムじゃないもん!」
「チッ、うるさいヤツだな!早くかせよッ!」
「もう!明日はかしてあげないんだからね!」

 と言いつつ、結局翌日も貸すのである。
隣の席の零くんとは、小学校に入る前からの付き合いだ。親同士の仲が良く、物心ついた時には既に彼は私の隣にいた。腐れ縁、のようなものだった。蜂蜜を溶かしたかのような綺麗な黄金の髪に、こんがりと焼けた小麦色の肌、そして今日の青空のような綺麗な瞳──。
 むすっとした表情をしていることが多かったが、たまに見せる笑顔はまるで向日葵が咲いたかのように綺麗で思わず私も笑顔になってしまうことが多かった。言うまでもなく、私の初恋の相手は零くんだった。

「零くん、ちょっと待ってよ!置いてかないで!」
「名前のこと待ってると日が暮れる。ほら、早くしろよッ!」

 言葉とは裏腹に、彼がチラチラと後ろを振り返って待っていてくれることを私は知っていた。それでもやっぱり零くんに置いていかれたくなくて、急いでランドセルに荷物を詰めて零くんの元へと走り出す。上履きから靴に履き替えてトントンとつま先を鳴らすのを忘れずに。

「ボク、観たいテレビがあるんだ。だから早くしろ」
「わ、待ってよ!もう行くから……」
「早くしないと仮面ヤイバーの再放送始まっちゃうだろッ!」
「仮面ヤイバー……零くん、ビデオだって持ってるじゃん」
「文句ばっかり言うなら、ボクは先に帰るぞッ!」
「もう、待ってよー!」

 この年頃の男の子にとって「仮面ヤイバー」とは絶対的なヒーローなのだ。たとえそれが再放送であっても、彼らはそれを観たいが為に走って家に帰る。ヒーローものよりも、どちらかというと夕方のドラマ再放送派の私には全く理解が出来なかった。いつの時代も女の子の方がちょっぴり成長が早い。
 零くんに急かされながらも、彼の黒いランドセルを追いかけるように懸命に右足と左足を交互に動かす。私の足音に合わせて、背中ではランドセルがカタカタと煩く音を立てていた。目の前を走る黒いランドセルからぶら下がる“ふるやれい”と書かれた給食袋を目で追っていると、何かに足を取られて見る見るうちに私の身体はバランスを崩し始めた。迫りくるアスファルトに、もつれる足。ぐるぐると回る視界にぎゅっと目を閉じるとおでこに強い衝撃を覚えた。咄嗟に地面に手を着いたが、どうやら間に合わなかったようだ。……おでこが痛い。

「っ名前!!!だ、大丈夫か!?」
「…………おでこ、痛い」
「っ、!」

 ゆっくりとアスファルトから起き上がった私の顔を見て、零くんがはっと息を飲んだのがわかった。手の平から血が滲んでいる。通りで痛いはずだ。擦りむけた手の平をぼんやりと見つめたまま立ち尽くす私の手首を零くんにぎゅっと掴まれて、思わずその顔を見上げる。青空のようにきれいな瞳は私の顔を見つめて見開かれたままだった。なに?

「名前、血が出てる……!」
「え?ああ、手の平すりむけちゃった」
「ち、違う!おでこ……!ボ、ボクが走ったせいだ……だから、お前が転んで………」

 青空みたいな瞳がみるみるうちに雨模様に変わっていく。その大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、今にも泣き出しそうな表情で零くんが呟いた。……何で、私よりも泣きそうになってるの?

「先生のところに……!!」
「わっ!な、なに、零くん……!?」

 「仮面ヤイバー」の再放送はもういいのだろうか?そんなどうでもいいことばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡る。ジンジンと痛むおでこよりも、零くんに掴まれたままの手首が熱かった。
 下校中の生徒の群れを掻き分けるように、零くんはズンズンと進んでいく。時折、同じクラスの男子が「ゼロと名前、手なんか繋いでやんの!」と囃し立てる声が聞こえたが、零くんが「うるさいッ!今はそれどころじゃないのが見てわからないのか!?」と睨みをきかせると相手はすぐに黙った。
 私は心の中で「手じゃなくて手首握られてるだけなのになあ……」と呑気なことを考えながら、零くんの横顔をちらりと盗み見る。少し不貞腐れて不機嫌な顔の零くんは何故だか耳だけ赤かった。きっとそれを指摘するとまた「うるさいッ!」と零くんに怒られるだろうから、黙っておこうと思ったのだった。

 “宮野医院”
まだ習っていない漢字ばかりだったが、その建物の風貌から何となく病院だということを察した。零くんは、慣れたようにその扉を開けて大きな声で「先生──!」と叫ぶ。すると奥の方から白衣に身を包んだ、眼鏡姿の優しそうな女医さんが現れ、私たちと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「あらあら、何の騒ぎかしら」
「せ、先生!コイツのおでこが……!!」
「零君また君なの……って大変ね、ちょっとこっちへいらっしゃい」

 先生と呼ばれた女の人は、零くんと同じようにキラキラと輝く綺麗な髪色をしていた。病院と名の付くものが苦手な私だったが、彼女の優しそうな笑顔や、大好きな零くんと同じ髪色というだけで少し警戒心を解き始めていた。子どもとは単純なものだ。

 奥の処置室まで零くんと二人連れて行かれると、消毒液の匂いや、よくわからない器具に少し怖さが蘇ってくる。零くんの背中に隠れるようにして、ぎゅっと零くんの着ている赤いシャツを握る私の様子を見て、その女性は小さく笑い声を零した。

「何だよ、名前……もしかして、怖いのか?」
「……怖くないもん」
「ふふっ。零くん、あまり女の子を揶揄うと嫌われるわよ。そのへんにしておきなさい」
「な、何だよ!そ、そんなことより先生、早くコイツのおでこ診ろよなッ!」

 零くんの照れ隠しが混じった必死のお願いに、先生はまた頬を緩めた後、治療に取り掛かるべくテキパキと消毒液やトレイ、ピンセットなどを用意し始める。

「そこの椅子、座れるかしら?名前は言える?」
「名字名前」
「零君、先生はその子に名前を聞いているんだけど……まあ、いいわ」
「べ、別にいいだろ!ほら、名前も早く椅子に座れよ」
「う、うん」
「傷口を消毒するから少し滲みるわよ」

 消毒液を含ませたコットンでおでこを当てられると、確かに言われた通り滲みて痛かった。思わずびくりと身体を震わせると、横に立っていた零くんがぎゅっと手を握ってくれた。

「ボクが手握っててやるからガマンしろ」

 いつも意地悪ばかり言うけれど、零くんは本当はとっても優しい。今だって、本当は痛くて泣きそうな私のことを見透かして優しく手を握ってくれている。そんな私たち二人の様子を見て、先生はまた微笑ましそうに小さく笑い声を上げた。

「よく我慢出来て偉いわね。これで痛いのは終わりよ」
「……ありがとうございました」
「ふふ、お礼も言えて偉いわ。腫れてしまっているし、少し傷が深いから心配だけれど……痕が残らないといいわね。それから、零君──」
「な、何だよ!」
「貴方ね、前からやんちゃだとは思っていたけれど……ったく、女の子の顔にこんな傷を負わせて……責任取らなきゃダメよ?」
「せ、せきにん……?」
「そう、責任」

 頭にいっぱいはてなマークを浮かべたまま首を傾げる私たち二人を見つめ、先生はまた笑みを浮かべてこう呟いた。「大人になったらわかるわ」と。

「それにしても、零君にこんな可愛いお友達がいたなんてね。ふふふ、先生、安心したわ」
「コイツはそんなんじゃ……!!」

 そんなんって何よ!と声には出さないが、零くんの言葉に私は頬を膨らませる。私の知らない零くんを知っているような先生の言葉も少しショックだった。零くんのことは、私が一番知っていると思っていたのに。

「……わたし、もう帰る」
「あ、オイ!ちょっと待てって!!名前、ボクを置いていくなッ……!!」
「ふふっ、ガーゼ取り替えてあげるからまた明日も来るのよ」

 ……って、行っちゃったわ、と笑い混じりの声が扉の向こうから追いかけてくるが、走ることに一生懸命だった私の耳には全く届いていなかった──。

 そしてその明くる日も、そのまた明くる日も零くんに引っ張られながら訪れた病院で真新しいガーゼに取り替えてもらう。
 滲みる消毒液と、先生を見つめる零くんの姿に、どっちのせいかわからない涙が出そうになった。つんと鼻に染みるそれに、瞳は決壊寸前だ。

「な、泣くなよ!……痛いのか?」
「…………痛くないもん」

 本当はまだおでこも心もちくちくと痛かったけど、強がって嘘をついた。ガーゼを貼り替えてくれた先生は、明美ちゃんに呼ばれて別の部屋へと出て行った。

「なあ……も、もしもこの傷が残ったら……ボクが名前のこと、お嫁さんにもらってやるから……だ、だからそんなに泣くなよッ……!」

 ぽかん。思わず零くんを見つめたまま、大きく口を開けたまま固まってしまった。右の頬の上を、ゆっくりと雫が落ちていく。

「だから泣くなって言ってるだろ!」
「だって……零くんがお嫁さんって……!」
「明美のヤツが言ってたんだ……セキニンとって、お嫁さんにしなきゃダメだって……」

 ボクがセキニンとってもらってやるから、泣くなよッ……!と顔を真っ赤にして叫ぶ零くんのおかげですっかり涙なんて引っ込んでしまった。にっこりと笑う私に「変なヤツ……!」とそっぽを向く零くんの耳はりんごみたいに真っ赤で「零くんこそ変なの!」と今回ばかりは隠さずに言葉に出したのだった──。

 ◇◇◇

「あれ、梓ちゃん前髪切った?」
「ふふっ、わかります?ちょっと伸びてきたから、昨日切ったんですよね」
「やっぱり!可愛いおでこ、いつもより良く見えるなあと思って」
「もうやだ~!そんなに誉めても何も出ませんよ!」

 ふふっと笑う梓ちゃんを見つめて、私までつられて笑顔になってしまう。梓ちゃんの笑顔は明るくてなんだかパワーをもらえる。ちょっと天然で、面白い子だ。

「そういえば、名前さんって前髪いつも同じ分け目ですよね?かきあげるのとかおでこ出すの似合いそうなのに!」

 何ていうんですかね?あれ。ほら、若い子がよくやってるでしょ!なんかセクシーなやつ。あれ、名前さんも似合いそうだなあと思って、と目の前の梓ちゃんは身振り手振りで説明してくれる。

「ふふ、若い子って梓ちゃんも充分若いじゃん。あれ、可愛いよね。でも、私に似合うかな……それに、実はちょっとおでこに傷痕があって」
「え、傷痕……?ごめんなさい!私、全然知らなくって……」
「ううん、そんなに大きな傷痕じゃないし……もうよく見ないとわからないぐらいだしね。それに……」

 淡い初恋の思い出を話すと、うっとりとした表情を浮かべた梓ちゃんが「今頃その男の子、どうしているんでしょうね……」と瞳をキラキラ輝かせた。本当女子って恋バナ好きだよね、可愛いなあ。懐かしくて、大切な想い出。

「どうしているんだろうね。まあ、彼の初恋は私じゃなくてその病院の先生だったみたいだけど……」
「あー、小さい頃って身近な大人に憧れたりしましたよね!」

 わかります、と言葉を続ける梓ちゃんに苦笑を返す。

「……でも、好きじゃなかったらいくら何でもお嫁さんに貰うだなんて言わないと思いますよ?」

 突然、背後から聞き覚えの有りすぎるテノールボイスが響く。びっくりしすぎて振り向けない私の真横を通り過ぎて、褐色の腕がカウンターの上にどさりと買い物袋を置いた。荷物を置いた褐色の大きな手の平が、私を囲うようにそっとカウンターの上に伸びる。思わず、その蒼い瞳を下から見上げると、一瞬だけ得意げに彼が微笑んだ気がした。……待って、いつから聞いてたの?

「もう、安室さん盗み聞きですか~!まあ、でもそうよね!」
「すみません……盗み聞きするつもりはなかったんですが……聞こえてしまって……」

 わざとらしく頬を掻く安室さんに、それが演技だとわかっていても何も言い返せない。まさか、彼が聞いているとは思わなかった。姿が見えなかったから、今日は休みなのだろうとすっかり油断していたのだ。少しぼんやりとする私の二の腕のあたりに大きな褐色の手の平が伸びる。私の肩を抱くようにして、安室さんが「それに──、」と言葉を続けた。

「案外、まだ名前さんのことを想っているかもしれませんよ?」

 なんて、ねとお決まりの言葉と共ににっこりと微笑む安室さんに、私はただただ頬を染めることくらいしか出来なかった。昔は彼の方が頬を染めることが多かったのに、今じゃすっかり逆転されてしまったようだ。そんな私の様子を見つめ、安室さんは満足そうに笑みを深める。

「もう安室さん、名前さん真っ赤になっちゃったじゃないですか!」
「はははっ、すみません」
「あ、もうこんな時間!買い物袋は私が片付けておくので、安室さんはもう上がってくださいね」
「いいんですか?では、お言葉に甘えて。……あ、そうだ。名前さん、帰るのなら送っていきますよ」
「え、でも……」
「外も暗くなってきましたし。それに、今日は僕も名前さんの家の近くに行く用事があるので。ついでですから……」
「そうね。日が落ちるのが遅くなってきたとはいえ、私も心配だから安室さん送ってあげて」
「ほら、梓さんもこう言ってますし……」

 ここまで言われてしまえば、断る術すら私には見つけられない。全て安室さんの思惑通り。本当に、あざとい。本当にそんな予定があるの?と思いつつも、そんなことを言い出せるような雰囲気ではなかった。
 流れるようにお会計を済まされ、「気を付けて帰ってね」と手を振る梓ちゃんに見送られながら、彼の白い愛車へと乗り込む。唸るエンジン音だけが、ツードアの狭い車内に響いていた。
 何となく運転席の方を見ると、あの日と同じ蒼い瞳が私のことを見つめていた。「な、何?」と吃る私を揶揄うように、零くんは小さく笑い声を上げる。そして、形の良い唇が何か言葉を発するために動き始める──。

「で、あの約束はまだ有効かい?君にもしも傷が残ってしまったら、僕がお嫁さんに貰うっていう……」

 ハンドルから離れた褐色の手がゆっくりと私の前髪を持ち上げる。あの頃と比べると、手の平さえも随分と大きくなったようだ。そっとおでこの傷を愛しげに指でなぞる零くんに、あの日と同じように瞳に涙が溜まっていく。

「貰ってくれるの?」
「そういう約束だろう?……僕は、守れない約束はしない主義だ」

「泣き虫なのは本当に変わらないな」と右の頬を伝う雫を零くんが優しく指で拭い、近付く彼の唇に私はゆっくりと瞳を閉じたのだった──。